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表紙イラスト:三浦寛
操体法 生かされし救いの生命観

橋本敬三先生と私

先生との出会いは、私が18歳のとき。まだ海のものとも山のものともわからぬ一人の若者に、「儂(ワシ)の所で勉強してみないか」と声をかけて下さったのです。

その時、何の迷いもなく「はい、そうさせていただきます。ありがとうございました」と師の意志に素直に委ねていた自分が、今にすると誇らしく思います。「あの時のおまえはそれでよかったよ」と自分に納得しているのです。

私は師とのご縁とめぐり合わせを至福のよろこびと思う一方で、自分に厳しく受け止めてきました。私は師とのご縁や操体とのかかわりを、決して人生の偶然としてとらえることができません。別年の人生を刻むかのように振り返ってみた時、私の存在そのものが、私をこの世に産んでくださったこの両親でなければならず、その親の存在とその愛という必然性が不可欠だったのと同様に、師とのご縁も最初から予定され組み込まれてい

た必然的な出会いであり、めぐり合わせであったと思えてならないのです。つまり、それは人生の予定だったのです。

私は自然な気もちで、このめぐり合わせとご縁を受け止めています。私自身にもともとそうでありたい、という、己の意志決定があったのかどうかはわかりません。ただ無意識なるイノチの波動が、その根源を内なるエネルギーとしてもって生まれてきたのかもしれません。私の命は、師との再会をこの世で果たすために発祥したイノチだと思っています。

その目的は、師の人生を通して、「愛と寛容」という英知なる自然の摂理によってありがたく生かされて生きているイノチの本質を学び、本当の意味で人としての人生をたのしむ(人が人として正しい、ということの本質)ことにありました。

私は、何の努力をすることもなく、私の人生の予定の中で必然性をもって師と出会い、師の庇護のもとで操体とのご縁をもたせていただきました。その後の多くの時間の中での「気づき」を、この一冊の本の中で表現させていただけることに深く感謝いたします。

最後に、読者の一人ひとりにぜひお話ししておきたいことがあります。

それは、「自分という私に気づきをもっていただきたい」ということです。

自分というイノチが何に向かおうとしているのか、その「私」の存在と、その「わけ」を一生のうち幾度となく愛する自分に問いかけていただきたいのです。その問いかけは、若ければ若いほどいいのです。そして、自分が生きることにおいて、すべての現象に無駄や無意味なるものはない、ということを、ぜひ理解してほしいのです。「生かされて生きている」ことの本質が理解できれば、すべての現象には必然性があることがわかります。

そういう中で、寛容という愛に満ちて生成発展しつづけていくイノチの躍動を、ぜひ感じとってほしいのです。

先生との出会いは、私が18歳のとき。まだ海のものとも山のものともわからぬ一人の若者に、「儂(ワシ)の所で勉強してみないか」と声をかけて下さったのです。

その時、何の迷いもなく「はい、そうさせていただきます。ありがとうございました」と師の意志に素直に委ねていた自分が、今にすると誇らしく思います。「あの時のおまえはそれでよかったよ」と自分に納得しているのです。

私は師とのご縁とめぐり合わせを至福のよろこびと思う一方で、自分に厳しく受け止めてきました。私は師とのご縁や操体とのかかわりを、決して人生の偶然としてとらえることができません。別年の人生を刻むかのように振り返ってみた時、私の存在そのものが、私をこの世に産んでくださったこの両親でなければならず、その親の存在とその愛という必然性が不可欠だったのと同様に、師とのご縁も最初から予定され組み込まれてい

た必然的な出会いであり、めぐり合わせであったと思えてならないのです。つまり、それは人生の予定だったのです。

私は自然な気もちで、このめぐり合わせとご縁を受け止めています。私自身にもともとそうでありたい、という、己の意志決定があったのかどうかはわかりません。ただ無意識なるイノチの波動が、その根源を内なるエネルギーとしてもって生まれてきたのかもしれません。私の命は、師との再会をこの世で果たすために発祥したイノチだと思っています。

その目的は、師の人生を通して、「愛と寛容」という英知なる自然の摂理によってありがたく生かされて生きているイノチの本質を学び、本当の意味で人としての人生をたのしむ(人が人として正しい、ということの本質)ことにありました。

私は、何の努力をすることもなく、私の人生の予定の中で必然性をもって師と出会い、師の庇護のもとで操体とのご縁をもたせていただきました。その後の多くの時間の中での「気づき」を、この一冊の本の中で表現させていただけることに深く感謝いたします。

最後に、読者の一人ひとりにぜひお話ししておきたいことがあります。

それは、「自分という私に気づきをもっていただきたい」ということです。

自分というイノチが何に向かおうとしているのか、その「私」の存在と、その「わけ」を一生のうち幾度となく愛する自分に問いかけていただきたいのです。その問いかけは、若ければ若いほどいいのです。そして、自分が生きることにおいて、すべての現象に無駄や無意味なるものはない、ということを、ぜひ理解してほしいのです。「生かされて生きている」ことの本質が理解できれば、すべての現象には必然性があることがわかります。

そういう中で、寛容という愛に満ちて生成発展しつづけていくイノチの躍動を、ぜひ感じとってほしいのです。

「快からのメッセージ 前書きより」