2020年。東京操体フォーラム設立20周年、三浦寛師の誕生日を記念して、東京操体フォーラム実行委員メンバーが「弟子からみた師匠」と言うテーマで、コラムを執筆しました。(編集 畠山裕美 東京操体フォーラム 操体法東京研究会 師範代)
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「弟子から見た師匠」 岡村郁生
我が師、三浦寛先生に師事してから何年経ったのかと改めて年数を数えた。
鍼灸あんまマッサージ指圧師、はり師きゅう師の国家資格と柔道整復師の国家資格を習得し、茅ヶ崎市にて開業した丁度一年後。
医道の日本に掲載された操体法の指導者募集という案内に惹かれた当時。
講習会に通い始めてから約21年の月日が流れている。
当時鍼灸接骨院を開業した私は、日々来院される患者さんの症状・疾患に追われ、その訴えを解消する、という業務に辟易としていた。
また、いつまでも改善しない五十肩のような症状にも嫌気がさし、本来病気を治すと言うことが本当に施術者の責任にあるのか、ということも頭から離れなくなっていたし、学生時代、操体法の本を斜め読みし、ちょこちょこと治療に使ったこともあり、本格的に手技療法の一つとして操体法を学んでみるのも良いチャンスだったのだろう。
今では、御縁に導かれたのではないか私は感じている。
東京三軒茶屋での操体の講習を受け始めてから、1つ1つの疑問や、自分自身を追い込んでいた苦しみから解放される、その快感とも言える学問体系を味わって現在にまで至っているのだから。
驚くことに三浦寛先生は、21年前から今に至るまで、操体の真髄とも言える、感覚を通してからだにききわけさせること「快」の追究・探求を通して進化するので、常に新鮮な講習となる。
それは常に操体法の真髄である、道を極めんとした姿、これを私達に伝え続けようとしている、そのように思えてならない。
実際、何度も師匠の臨床を傍で拝見する機会をいただいていることもあり、正直学んでいても、見れば全てわかるようなものでない。
よせては引く潮の流れにも似た静かな臨床は、まるで自然法則の応用貢献そのもの、操体とは何かという問いかけを感じずにはいられないのである。
そもそも、操体と操体法は違う。
操体は操体法の創始者、橋本敬三医師が纏めんとされた、未だ完成されていない未病・健康増進医学の道でもある。
操体法は、その橋本敬三の哲学思想に基づいた臨床を通すと言うものである。
故に形のようなものがあっても繰り返すようなことにならない。
生きている人間の体の本質を見極め、その体の欲している何かを感じ取りながら、被験者である患者本人に聞き分けて、気持ちよさを味わっているうちに、本人の訴えるトラブルをも治すことにつながる、その最短ルートである。
実際に操体の臨床を受けたこともあり、その感覚的な変化、及び症状と言うものを自分自身の言葉で語るなら、自分がわかっていること以上に「からだ」はわかっている。
その意味を操体の臨床で感じ取り、きき分け、その「からだ」の要求している本質が自分自身にも響いてくる、と言うところであろうか。
症状疾患にとらわれない。この操体臨床を極めるとする道を、我が師匠、三浦寛先生は熟成しつつ今も歩み続けている。
寡黙に実直に、ただただ探求し、歩み続ける。
その求道者であるとも言える姿に惹かれ、今現在も学び続ける私がいる。
だからこそ決して、安易に操体の学問を学ぶなら、三浦寛先生にお願いした方が良いよと軽くは言えない。
全てを委ね、指導できる伝道師たる師に巡り会うこと。
奇跡的な人生を歩み、また師の歩みしその道を、自分自身の生きる糧として味わうといった人生の妙味は、他の何物にも変えがたい宝物として味わえる。
その事は保証する。
いつの日もこの歩みを止める時もなく、終演の課題も未だ観得ず、果てしなく追い求めることに繋がっていく。
自分自身の底知れぬ学びに対する姿が誇らしく思える。
有り難き感謝の想いは人生をとめどない喜びへと導いてくれる。
それは心より、いや「からだ」の悦びとして感じとれる。
これ以上の浄福はあるのだろうか。
その浄福に至る道を、己の本願として一歩進めると願う真の者は、思い切って門を叩いてみると良い。
そこに様々な生き方を、自分の知らぬ自分自身を垣間見るに違いない。
岡村郁生 東京操体フォーラム実行委員 操体法東京研究会 師範代
「弟子からみた師匠」半蔵
三浦寛先生は、操体法創始者 橋本敬三先生の衣鉢を継いだ人です。
何を継承したのかといえば、「自然法則の応用貢献」という師からの課題を真摯に受け止め、臨床において、よりからだの要求に応えられる様に、操体を進化させて行ったということです。
橋本先生は、「温故知新」という言葉をよく使っておられました。
『論語』の原典では、「温故而知新」となっています。
「温故」とは、既存の知識や知恵を煮込んで温める。
「而」は、時間の経過(発酵、熟成が起こる)
「知新」とは、何かが変容を起こして、新たな知見や方法が出現する。
三浦先生は、将にこれを地で行った人です。
そして、全て自らのからだに感覚を通して、臨床で試した人なのです。「学得」ではなく「体得」の人なのです。
もうこれ以上言葉を費やすことはありません。
後は、橋本先生の名言「うまいか、まずいか、食ってみろ」です。
半蔵 東京操体フォーラム実行委員 操体法東京研究会 師範代
「弟子から見た師匠」日下和夫
三浦寛師は操体の祖師である故橋本敬三医師の直弟子であり、師の下で長年研鑽を積まれていた。 そして、橋本敬三医師から 「機は熟した」 との命を受け上京し、独立開業に至る。
その後、人体の構造運動力学の研究を重ねて独自の理論と技法の開発を続けていた。 しかし、同胞でありながら橋本敬三門下の人々からは誹謗中傷を受ける存在でもあった。
それでも熱気をもってその研究に没頭する傍ら、熱烈な指導も続けられていた。 このような未来を背負って立つような価値ある医療的功績は、いつの時代でも周りから冷笑され非難されるほどの少数派の探求者によってのみ始まるものである。
私も20年ほど前に操体に縁ができ、三浦寛師や少数派の仲間の英知と情熱と人間的な温もりに支えられながら、操体道に励むことができた。
また日々の臨床において、三浦寛師の持論である 「重心が適正に適った動きを誘導することで、快を共有することができる」 という理論を私は座右の銘にしている。 そして、操体に縁ができた新しい仲間にもこの感動を分かち合いたいと思う。
日下和夫 一般社団法人日本操体指導者協会 関西相談役
「弟子からみた師匠」 瀧澤一寛
「オレが凄いんじゃない、からだが凄いんだ」
その声の主は、自分のやっていることを誇示するわけでもなく、かといって謙遜するわけでもなく、ごく自然な感じで僕に語ってくれました。
その声の主とは、操体の学びにおける僕の師匠、三浦寛先生です。
三浦先生との出会いは、一冊の本がきっかけでした。
鍼灸マッサージの専門学校を卒業してから5年が経った頃、僕は「自身のバックボーンとなるような勉強がしたい」という想いを強く抱いていました。
専門学校では基礎的な知識(ほぼ国家試験対策)を暗記し、現場に出てからは、鍼灸やマッサージの技術に加え、症状に対するアプローチやその原因の診方などを教わり、臨床に携わっていましたが、
どうも自分のやっていることが継ぎ接ぎのように感じられ、「このままテクニックを覚えていっても場当たり的にしかならないんじゃないか」という疑問が湧いてきたのです。
その解決策として選んだのが、その道一本でやっている先生の下で一から学ぶこと。
そんなときに本屋で出会ったのが、三浦先生の著書「快からのメッセージ 哲学する操体」でした。
その本の内容に引き込まれ、数ヶ月後、僕は被験者として初めて三浦先生にお目にかかり、操体臨床を受けたのです。
今まで受けたどんな臨床とも違い、三浦先生の意図することが全く分かりませんでした。
症状に対してアプローチしているわけでもないし、骨格的なバランスを診ているわけでもない。やっていることといえば、からだのある部位に軽く触れているだけ。
にもかかわらず、今まで味わったことがないような感情やからだの変化が現れ、なによりきもちがいい。
凄いことをされているという実感だけはあったので、「先生凄いですね」と言ったところ、冒頭の言葉が返ってきたのです。
臨床を受けた後も、数日間は臨床を受け続けているような満たされた感覚が続き、「何か雰囲気が変わったね」と妻もその変化に気づくほどでした。
当時の僕に三浦先生の意図が分からなくても無理はありません。僕は今まで誰からも「からだ」について教わることがなかったからです。
先生は僕に「からだ」の世界を垣間見せてくれた初めての人でした。
症状にアプローチするのではなく、構造的なバランスを診るのでもなく、「からだ」と対話することで、こんなにも豊かな世界を味わえるということを、理屈ではなく感覚を通して教えてくださいました。
その後、三浦先生の下で操体を勉強することになり、その姿勢を拝見し続けていますが、先生は一切妥協せず、誰よりも「からだ」に対して真摯に学ばれているのです。
瀧澤一寛 東京操体フォーラム実行委員
「弟子から見た師」友松 誠
私が操体を本格的に学び始めたのは、2003年でした。
どうせ学ぶなら、しっかりと学びたい。しかし、どのような人から学ベば良いのか、皆目見当がついていませんでした。
手技療法の世界では、昔から他人に教えるに見合った経験や研鑽を積んでいなくとも、セミナーや講演会を開いている人も多い。
ましてや操体の場合、一般にその名が広まる過程に於いては、健康体操のようなものとして広まった面もあり、そういった面だけで他人に教えている人も多くいた。
私は手技療法の現場で操体法の臨床効果の高さは認識していたので、今まで学んだ手技療法とは全く違う真逆の捉え方とも言えるやり方で、何故これだけの成果が上がるのか、それが知りたかった。
しかし、当時の操体の世界は混沌とした様子で、他の療法との良いとこ取りの基礎や基本などお構いなしの方法論が乱立した状態だった。
そんな時「操体臨床の要妙」という一冊の本の写真に目が止まりました。
写真は、師が被験者の動きに介助、補助を行なっている様子を写していたが、その姿を見て「あっ、この先生ならば間違いない」と感じた。
明らかに他の操体関連の本を書いている人の写真の動作、姿勢とは違う。
その調和のとれた作法の容姿からは、長年の研鑽の積み重ねと一つの道を極めんとする揺るぎのない気概が感じられた。
あれから18年。私は師、三浦寛先生と毎日顔を合わせているわけではないが、師の気概が揺らいだと感じた事は一度もない。むしろ、年々その気概は高まっているとさえ感じる。
操体は世間一般が思い浮かべる治療医学とは違う。
勿論、治療という面はあるが、そこだけに捕らわれずに未病を治す事こそ最良とする哲学があり、その未病を治すという取り組みの臨床応用が治療といえば治療という事なのです。
そして、その臨床効果は一般的な考え方からは想像もできない効果をみる。
だから、そういう意味でも師の師である操体創始者の橋本敬三先生は、医師でありながら「治療なんて下の下だ」と言われていたのだと思う。
未病を治す、もっと言えば病気とは無縁に十分に満足して快適に生を全うできる、そんな健康学こそが求められるべきなのです。
確たる健康学が掴めれば、それを元に自分でより良く快適に生きるコツが身についていく。また、それを基に病んだ人と向き合った時に、どうして病んでしまったのかの原因や、病んでしまった身心が何を求めているかが分ってくるのです。
その確たる健康学を探究してきた歴史が操体の歴史であり、その真の究明と人々への貢献は創始者、橋本敬三先生の悲願でもあったと思います。
師、三浦寛先生は「創始者の成してきた事を学ぶのではなく、成さんとしてきた事を学びなさい」と時折言われます。
創始者である橋本敬三先生は、真の健康学の成立を目指し、生き方の自然法則の探究に心血を注いだ。
その中の一つが身体運動の自然法則であり、そこからの臨床応用が「ツライ動きの方向から楽な方向に動かして脱力する」という操体法の第一分析だった。
創始者が成してきた事とは、生き方の自然法則を探究し、それを応用した第一分析での人々への貢献でありました。
しかし、成さんとした事は真の健康学を成り立たせる事なのです。
だから、創始者も第一分析をセオリーどおり生涯行っていたのではなく、晩年の頃には楽かツライかの運動分析や瞬間急速脱力させるという事をやらなくなっていったという。
そして「気持ちよさをききわければいいんだ、気持ちよさで治るのだからな」という言葉を発するまでに至る。
しかし、創始者は自分で悟り得た事を実現できぬまま「後は君達に託す」と言い残し、その生涯を終えられたという。
創始者の言葉と遺志を受け継ぎ、第2分析を体系化したのは、師、三浦寛先生でした。
その道のりは、長い年月に及ぶ研鑽の日々の連続であったようです。
御苦労もされたと思うが、それにもまして愉しみも大きかったようにも思われます。
師は、よく「私は操体を橋本敬三先生からお借りしている」と仰るが、その言葉からは、それだけ愉しませていただいている、という感謝の気持ちも感じ取れる。
何故なら、創始者の遺してくださったのは苦学ではなく、探究すればする程に生命の歓喜につながるものだからなのです。
その根底には、気持ちよさをききわけるということがあり、原始感覚を磨いてからだに快をききわけているから、自分だけでなく他人様の苦しみや不快感にも敏感になれるし、からだをつうじて快の方向へ導く事が出来る。
自分が楽に向いていれば、楽をしたいという自我が邪魔して自分のからだや他人様のからだが発しているサインに鋭敏になれない。
師に接していると、何故こんなところにも気を配れるのだろう? と感じることが度々あり、師の心根の優しさを垣間見るのですが、そこにも快をとおしての学びが大きく関わっており、快に向くよう何かしてあげたくなるのだと思う。
そうした快からみた学びが、動きがとおせない人や感覚のききわけが困難な人にも対応できる第3分析にもつながったのだと思います。
そして、第3分析で終わりではなく、第4分析、第5分析へと操体は進化していく事となる。
特に第5分析への進化は、橋本敬三先生の時代から当然として受け止められてきた身体運動の基本を根本から見直す事となってしまった。
しかし、そうすることで今までより確実にからだの要求に応えられ、初学者の方でも操体に親しみやすくなっており、第5分析である重心の適正化は、正に真の健康学と成りえるものと感じます。
師は、ここでも長い年月をかけ、念には念を入れて、からだの動きから身体運動の根本的な見直しを行っている。
そして見直して新たに取り入れたものが、本当に間違いのないものと結論付けた上で、私たち弟子に教えて下さった。
そして、そこからまた年月をかけてフィードバックを繰り返し、より確かなものとした上で言葉の表し方にも気を配りながら、より多くの人が納得して重心の適正化に取り組めるよう配慮している。
師は、今まさに師の師であった橋本敬三先生の成さんとした真の健康学の成立を成さんとしております。
きっと橋本敬三先生もよろこんで下さっていると思います。
友松 誠 東京操体フォーラム実行委員
「弟子からみた師」三浦寛幸
私が操体の臨床をはじめて受けたのは今から約15年前に遡る。
当時休むことなく仕事をしていたことでからだはボロボロであった。
そんないつ壊れてもおかしくない状態であった日々の中で、ある日朝から頭痛と吐き気で呼吸することもままならないない日があった。
行く宛てのない私が真っ先に頼ったのが三浦先生の所で、激痛から薄れゆく意識の中で「ただ寝てなさい」と言われたこと、そして右手首を触れられていたことだけは鮮明に覚えている。
現在になって振り返るととても不思議な時間であった。ただ触れらていただけなのにそれまでに体感したことのない心地よさと右腕が自分のものではなくなっていくような不思議な感覚。それをただひたすら味わっていた。
そして臨床後に何事もなかったかのように自然に呼吸が出来ていたことで普段当たり前に出来ていることへの感謝の気持ちが芽生えたことは昨日のことのように覚えている。
その時芽生えた感情はその後の私の意識や考え方を大きく変えていった。
それまでの人生で持つことのなかった自分の健康への興味、操体の世界観への憧れ、そして臨床家としての三浦先生や創始者である橋本敬三先生の生き方に少しでも近づきたいという想いを次第に抱くようになったのである。
わずか一時間余りの臨床で人生を変えられる操体の力と三浦先生の臨床、人間としての魅力に惹きつけられ、それがこの13年間の学びに繋がってきた。
そしてこの歳月の中で三浦先生を師と仰ぎ、その生き様を常に間近で見てこれたことも一つの要因である。
人に対する目配りや気配り、自身の一日の時間の使い方、そして学ぶということにおいての自身の姿勢。そういった様々なことを操体の学びを通じて得られたことが現在の私の無形の財産となっている。
常に厳しく、時には優しく私を見守ってくれていた師の姿勢はこれから臨床家として生きていく私の原点と指標とすべきもので、これからの世代にも伝えていかなければならないもので私自身も大切にしていかなければならないものだと思っている。
三浦寛幸 東京操体フォーラム 実行委員
「誰よりもじっくりと、先を見据えて歩むひと」寺本 雅一
師匠と出会う御縁をいただいてから、そろそろ10年くらいの月日が経とうとしている。
数年毎にいままでの学びを振り返り、それをもとに今を顧みる機会をいただいている
師をみていて感じるのは、「重続の継続」。その言葉そのままの学ぶ姿だ。未だに同志の、その誰よりも時間をかけて勉強をしているのではないかと感じてしまう。
薄々感じてはいたが、うちの師匠はかなりの熟成期間をかけて学ぶタイプの人だと思う。普通の人がすんなり納得して前に進んでいきそうなところを、学びの「種」をそう簡単には手放さない。じっくり時間をかけて重ねていきながら、でも不思議なことに、気が付いたらいつも誰よりも先を見据えて歩いている。この辺の感覚がうちの師匠の秘密だと思う。
何かを学ぼうとする人間、また学び続けようとする人間にとって、これほど有難い存在はいない。思い返せば、好奇心だけが旺盛で飽きっぽい私が、今でもこの御縁をつないでいたいと感じるのは「操体」というきっかけを通じて、師匠の学ぶ姿を見ていたいと感じているからだと思う。学んでいる人の姿は、「元気」の源だと思う。
あなたの学びの目的が「操体」にあるのなら、一度、三浦 寛に会ってみたらいいと思う。
橋本敬三の言葉を受け取って、その言葉を現在も発酵させ続けている人物がいることを知って欲しい。そして、いまの操体を目の当たりにして、あなたは何を感じるだろうか。
操体に興味がなくっても、もしこの人物のモノクロ写真などをみて、何か気になってしまった、会ってみたくなってしまった、この人どんな声してるんだろう、と素朴な疑問を感じてしまった、という人がいたら、寧ろそういう人にこそ私は師匠を紹介したい。
多分、その直観は当たっている。私もそんな出会いが始まりだった。
きっと、自分に必要な何らかの「元気」を、この人物からたっぷり味わえるはずである。
寺本雅一 東京操体フォーラム実行委員