愛と生

おはようございます。前回、前々回担当の二人のブログはすごい。その情報領には舌をまく。

(注:東京操体フォーラム実行委員ブログ、畠山裕美福田勇治担当分。テーマは「性」)

私は皆さんより年の功で、人生経験・その場数で自分を語る以外なさそうだ。詩人ゲーテは「幸福論」のなかで、幸せであることの条件をいくつか取り上げている。どれも、これも、なるほど、そう言ふことなのかと、妙に納得できるものがばかりであった。そのなかに、『朝目覚めた時に、今日もやることがある』ことが、なんてすばらしい人生であろうかと書き残している。

自分自身のなかで、人とはちがう、ぶっとんでいる自分がいるか。愛と生を語るとき、このゲーテの言葉は我が身にいたくしみ込んでくる。「そんなこと考えてみたことがない」人にとっては、やることがあって当たり前なのだ。人生のおつとめは生涯のことと思ふのだが・・・。「朝目覚めて、今日はなにしようかとボーッとしている内に時間が過ぎ、夕刻になってしまった。今日も何一つやることがなかったな」そんな自分をイメージしてみた時、いったい自分は今までの人生と向かい合ってきた時、何をやってきたのだろう、と思うであろう。何か、むなしい。

人生その愛と生なることは、加齢と共に実り多きことであったはづ、決して枯れ朽ちて、なにもやることがなくなってしまう生き方ではなかったはづであった。意識の豊かさを一年一年重ね着していく姿に人生と愛と生があると思ふのである。

社会に貢献し、家族を養い、精一杯生きてきた。それも愛と生の自分の姿である。ふと、私は自分自身にとって、何をやってきた人生なのかの問いかけを残していた。自分にとって自分は自分に何をしてきたのか・・・と。

それは自分と自分との納得である。Give & Takeではなk、自分自身とのGive & Giveである。それは無条件に受け入れて成す、成していくことである。人生は一度。一度の生涯のなかで、無条件に何を自分自身に問いかけてきたのか、問いかけることがあるのか・・と言ふことである。

今回のテーマは「愛と性」と言ふことでありますが、ブログに目をとおしている方々、私のテーマは「愛と生」になっていることに気づかれているだろうか。セイはセイでカタカナで書けば営むことで一緒。早朝から「愛と性」ではとろんとしてしまう。後半からのブログから「性」にもどしておきます。