死との瞬間  

 

 

★仙台葛岡の橋本家墓所にて

 

私自身、生命感覚としての快、(きもちのよさ)を日々味わっている。至福とも言うべき感覚なのであろうか、とにかく、きもちがいいのだ、味わっている間、このまま、お迎えが来てくれたら、なんと幸せであろうかと思うことすらある。  

 私は、全てのイノチに、快に従う、というバランス感覚(生命感覚)が存在する、と思い続けている。思い続けている以上に、確かに自在、内在している感覚なのだ、と確信している。生命という器(ウツワ)そのものが、このバランス感覚に従っているように思えてくる。この生も死もバランス感覚で保たれている。命あるものは死というキャリアを避けては通れない。

 なぜ生あるものに、全く相反する死という絶対的実現が生の最後に実存するのか。生のフィードバックが、いつか迎える死の実現である。それが生かされている、という実相の姿なのではないか。快に従うというバランス感覚は、何も生ある命だけに与えられているものではない。死そのものにも、そのバランス感覚はある。死とは人生終極のバランス感覚である、と信じている。  それは、なぜか  私には余り死に対する恐れは無い。むしろ死の瞬間に、どうしても、しっかりと確認して、この肉体とお別れしたいことがあるのだ。それはゾクゾクするような楽しみなのかもしれない。  

 私は常々、死の瞬間とは人生最高のエクスタシー(快感)なのだと公言しつづけている。最高の快感とはいったい どんな味わいごとなのであろうか。  私は操体の臨床を学ぶなかで、生涯のレーベンス・テーマにしていることは、快適感覚の探究である。この生涯のテーマの究極は、私が死を迎え入れる祭儀の一瞬、その瞬間の快感(エクスタシー)を私自身が体験することである。この体験はこの世に生を得たものだけが味わえる特権であり、人生最大のお祭りである。しかし多くの人達は己れの死の瞬間が最高の場面(ショー)であることを自覚していない(知らない)。多くの人たちは恐怖と不安をもって、己れの死と向かい合っているのである。私が死の瞬間は最高のエクスタシーだと言い続けてきたことが、医学的にも証明されている。ごく最近ホスピスに従事している医師の話しを耳にした。その医師はまるで私が公言する、そのまゝを語っているのだ。その医師は、「死の瞬間は、とにかく、きもちがいいらしい。」と・・・。  医学的には、死の瞬間、脳内からエンドルフィン、エンケファリンという快感・快楽物質がドット分泌されるというのである。 このホルモンの分泌は、死の瞬間でなければ多量に分泌されることがない、それだけに味わうことができない至福の恍惚感を味わえるということなのである。人生の最後の瞬間に、最高の恍惚感が全てに人達に公平に与えられているというのも、死に対するバランス感覚なのではなかろうか。 

 

(2004年2月20日)

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