私語録(前編)

 

私が、ここで述べる快適感覚とはネ、可動領域(ROM)が広い動きを示す訳でもなければ、楽な動きを示すものでもないしネ、また、楽な動きはきもちがいいものとも、楽な方に動かせば、きもちがいいとも言っている訳じゃないんだ。  ききわければ必ずある感覚を示して言っているんだ。この感覚は楽な動きにもききわ ければある。ある感覚なんだけど、全く無い場合がある。

つまりネ、からだがきもちのよさをつけてくるケースと、つけてこないケースがあるって言うんだ。当り、ハズレがあってネ、つけていない、つけてこない、無い確率の方が高いと云う訳なんだ。だからネ、ききわける、ききわけて診る、確認してみる必要があるんだ。面ド臭いがらずにやらないとネ、この、ききわける、という診断が動診の目的だっていうことをネ、ハッキリ認識しないと・・・。 

 

 ハッキリ云うけど、楽な動きだけを確認したってネ、動診の目的の半分も成していないんだヨ。快適感覚をちゃんとききわけなければいけないヨ。  だからネ、操法上、快適感覚を選択するのか、楽な動きを選択するのかは、きわめて重要な問題なんだ!指導する側のこの目的意識がイイ加減で曖昧だとネ、からだに見破られてしまう。ごまかしがきかないんだネ。  からだは正直でとても素直だヨ。楽と快の選択は実にシンプルで明快なんだ。それが生命の原始感覚なんだからネ。楽と快を明確に、ききわけ選択する。それが結果的に臨床効果として著明に現れてくるんだから、正直なものサ。だからネ、このききわけるということを、イイ加減、曖昧にはできない、と言ってんの。からだは楽と快を見のがさないんだ。  操体の臨床にかヽわっていくとネ、この楽と快の意味選択に一度や二度必ず頭をぶっつけ悩むんだよ。僕はネ、何度でも頭をぶっつけた方がいいと思うネ。肝心要なんだから。ぶっつけた分、ホントに勉強になる。いくらぶっつけたって、タンコブつくる訳じゃなし、その分、利口になんだから有難いと思って取り組まないとネ。避けてとおれぬプロセスなんだから、本来日常生活の中ですらネ、この楽と快との感覚意識すら持ち合わせていないんだからネ、この意識感覚レベルは野生の動物、植物のほうがズーッとまさっているよ。彼らは本能にさからっては生存できないんだよ。その本能の選択は楽じゃなくて、快に従う、というイノチの意志感覚なんだね。人間さまの場合は、この本能をうわまわる欲望を、その歴史、文化のなかで身につけてしまった、麻ヒしちまってんだネ。  

 

それはさておき、この快と楽の認識だけど、この問題に晴れてクリアーした者は決して治し方の技法とか、テクニックに走ろうとはしないネ。本物になれるよ。ただ、この認識からさけて通った者は、確実に、操体から離れていくかネ、我が技法に走り、己れが成すことを主張し、我にトン走する以外ないネ。操体も、操体の臨床も結局、自然の摂理(法則)だもの、その理(ことわ)りを説く姿だもの。それから、それてゆく、それるという様(有様)はネ、当然そのような成り行きが報いとして待云うことじゃないの。誰れが手をくださなくったってネ、それが理りにそむいた姿、成りゆきの有様だ よ。おもしろいよネ。一度操体に取り組んで離れていった人達というのはネ、まづ、二度とチャレンジしてこないネ。僕はそれ、わかるよ。操体は自然の摂理の理りをといているからネ。利用してかかったり、食いちらかそうと、搾取してかかわった者はネ、うすうす、そのことのこわさが分かってじゃないの。僕はそう思うんだネ。  仲間がネ、イソップ物語りにある「北風と太陽」の話しをするんだよ。操体とはネ、まさしく、北風と太陽の話しだネ、マアみんなこの話しをサ、一人ひとりが考えてみてよ。  ところで、操体臨床のキーワードだけどネ、快に定めるか、楽な動きに定めるかネ、意識を、ちょっと変えてみると、そのジレンマから、糸もたやすく解放されるんだけどネ。誰れにでもわかる。子供のほうがよっぽどわかっているよ。特に、この快、不快に対してはネ、イノチのヒビキとしてネ認識しているよ。子供がきもちがいいことって大好きだからネ。  きもちいいことが大好きってことは、この命が、快に従い、快にむくという意志感覚をもっているんだと考えた方が納得できるよ。  人間はなんでも、理屈をこねたがるけどネ。この自然の摂理の理は、理屈じゃないんだ。テメエの頭の知識、情報の問題じゃないんだよ!!  しかしネ、一度身につけてしまった楽という欲には、未練、執着があるだろうネ。オレだってネ、三十七年前、先生(橋本敬三先生)の内弟子に入ってからの十五年間は、楽な動きを操法に選択し、そう定めてやってきたんだ。そのように先生から習ってきたからネ。それが、先生がネ、現役をしりぞいたその年に、もう今までの認識で取り組めなくなってしまったんだネ。僕が先生に紹介した後輩が、温古堂勤務の初日にネ、私が見ている前で、診断室にとどろきヒビクような大声で、「患者には、快適感覚以外のことは教えるな!!」と一喝されるし、私には、なぜか、語りかけるように「きもちのよさをききわければいいんだ。きもちのよさでなおんだから」と話されるしネ。いったいなんだって、十五年も先生について学んできたのに、先生が今、語っている意味が理解できなかったんだからネ。なさけなかったよ。いったい、今まで何を学んできたんだって、打てどひびかぬ、この頭、どこか抜けてたんだネ。おはづかしい話しなんだけど、でもネ、気づかされてネ、さとされて、それに反応できたことは感謝だネ。それで目がさめたもの。有難かったよ。そしてネ、先生ご自身も、臨床のなかで、常に、これでいいのか、これでいいのかって妥協を許さづ究学しておられるんだなと、その信念、ひたむきな姿に改めて、敬意を払ったネ。その時、先生からネ、「三浦、まいったか!!」と、問い正され、1000歩さがって、深々頭を下げ、「まいりました先生!!」の境地だったネ。僕は。  

 

そんなこと、一言も言わん先生だけども、そんな重大事があってネ、僕は今まで身につけてきた操体臨床とはキッパリ縁を切って、又ゼロから、再出発したの。快適感覚に問いかけた診断と操法が具体化するまで、五年かヽったけど、ドデカイ収穫だったネ。操体臨床の姿、ビジョンがハッキリと見えてきたんだから、そりゃ、うれしかったネ。1000歩さがって、深々と頭をさげ、まいりました、素直に従って良かったと、ホントに良かったと、今回想してみて、ホントにそう思う。だからネ、この楽という欲とでも言うのか、しがらみと云うのか、その執着から己れを解き放していくって言うことはネ、今まで何十年と学んできた人間だって捨切れるもんじゃないんだネ。この楽には妙な居心地の良さがあるからネ。一度この楽に満たされていると、これでイイヤと自己満足してしまうよ。今さら、そこまで、わかろうとはしない。慢心するには、楽ほどイイものはないよ。慢心の敵は楽だな!!だからネ、慢心するとネ、十年、十五年、イヤ百年万年やっていると言ったって石コロのように今も昔も何ら変化せづ、あいかわらづっていう人がいるよ。石コロだってネ、バランス感覚だけはもってんだ。そんなの石コロ以下かもしれんネ。  執着を解くカギは、意識をかえて診ることだ。その執着を解けば、どれほど、たのしく、おもしろく、好奇心をもって、興味津々一生味わえるのかってネ。  治し方の技法、テクニックに走る、その姿とは、オレがオレがの世界観だネ。自分は自分だが、自分を越えたおおいなる力に支えられている自分という意識、時現じゃないわね、どうしても、技法、ワザに走りたけりゃ、名人、達人になるしかないよ。  それとて、誰れにでもなれる訳じゃない。万人のうち一人か二人かはネ。技法とかワザというのは、治し手のテクニックだからネ、いくらスバラしくても、他人にほどこせたって、自分(本人)にはできないからネ。それが治療なんだよ。だからネ、それが、操体のように、自力自療とか、未病(医学)につながってこないんだ。少しは僕が話(しゃ)べっていることが理解できるだろう。  

 

橋本先生はネ、「治すことまで関与するな」と言うよ。そして「治すことはからだにお責せしろ」ともネ。操体は治し手の技術やテクニックじゃないと言ってくれているんだろう。そうじゃない?僕はそう理解するよ。  この先生の話しを理解するうえでヒントになることも語っておられる。こんな風にネ、「きもちのよさ(快適感覚)が治る力、治(な)ほせる力、つまり、その人がもって生まれた治癒力だってネ。そこんところの心根を学び養えってネ、先生は、我々に諭しているんだ。  だから僕はネ、愚者にも、また学びにくる受講生にも、楽か辛いかをききわけんじゃなくて、きもちのよさをききわけろって指導するんだネ。その運動分析も、対なる動きを二者択一的にネ、比較させんじゃなくて、一極微(イチゴクミ)にネ、分析しなさいと言ってるんです。一極微というのはネ、どの動きに、快適感覚、きもちのよさがとおっているのか、あるのかないのか、ききわけられるのか、ないのかを、一つひとつの動きを分析ききわける、ことを意味するんです。  ききわけを確認した上で患者にはその感覚を認識させた上で、きもちのよさの最高を求められるように、味わえるように、それが成せるように、指導できるように学びおさめていくことが大切だと、それが操体の臨床だって指導するんです。その上でネ、患者に指導する前に、まづ自ら、その感覚を体感しろって、自分が体感しなくて、どうやって指導するんだって言うんだけど。自分がネ、快適感覚を体感しないとネ、操体の指導とか臨床は無理だよ、と言うんです。  動かして診るという動診、運動分析に欠かせないのが連動って言うことなんだネ。局所関節の動きにともなって、全身形態が連動して動く。と言うこと。これが、なかなか理解できないんだネ。やっている人達が理解できないんだネ。やっている人達が理解できていないんです。だから・・・・・・・。でもネ、現代医学にも、東洋医学にも、この連動、つまり僕なりに言うと、この連動学という医学的学問が無いしネ。橋本先生も、この連動に関しては、著書の中で「運動系は中枢神経を介して、全計、全組織連動装置になっている」と述べておられる。動かして診断していたんだからネ。この連動に関しては、著書の中で、「運動系中枢神経を介して、全系、全組織連動装置になっている」と述べておられる。動かして診断していたんだからネ。この連動に関しては、臨床のなかで、奥深く学んで実践してたんだけど、その詳細までは文章化して残されなかった。残念だけども、しかし、これも先生の配慮なのかもネ。操体を継承していく我々の宿題、おきみやげとして残して下さったんじゃないかって、僕はネ、そう理解している。  今、私は、この連動学をイラストも含めて百数十枚の原稿にマトメてみたんですよ。この連動に関して、こうしたザンシン的なとらえ方は今までなかったからネ。先般から、医道の日本社の編集部担当者に打診しているんです。近々この原稿に目を通してもらう予定なんですネ。ところでネ、連動、連動と言ったって、この連動をちゃんとわきまえて指導している人は、ほんの一握りかな。なかには、局所が動くから全身が勝手に動く、それが連動だって教えてんだからネ。そう言いだす者に限ってネ、患者に「動きたいように動いてねとか、好きなように動いてネ」と、全身で表現するように指導してんだけど、はっきり言って、意味不明だネ。動きたいように動けったって、好きなように動けったってネ、いったいどう動けってんの。相手の身になって言ってる言葉かって言うの。笑っちゃうけど、無責任だと思うネ。先生はネ、きもちのよさを連動の舵手、つまり羅針盤にしなさいとネ、「きもちのよさを全身で操れ」って言っておるのに。だからネ、楽な動きじゃだめなんだって!きもちのよさをききわけないで、きもちよく動けったって、きもちのよさで全体を操るにしたって、快感のきわまりで、たわめのマを獲得するったってネ、どうすんのよ!!

(2003年11月)

 

2010年春季東京操体フォーラム分科会より(撮影:白井智氏)

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