言葉の力

その問いかけには必ず目的がある。先回代田文志著「鍼灸の基礎治療学」を書き写す経緯(いきさつ)を話しましたが、もう少し書きたしてみます。

先生は満足げに「よくやったな」と言われ「佐助、ごほうびだ!」と代田先生の「鍼灸の基礎治療学」を贈って下さったのでした。「無条件に受け入れそれに答えようとすれば、その報いは喜びとして必ずかえってくるものなのだな」ということを私は学んだのでした。

コツコツと静かなる汗をかき、つかんでみなければわからないもの・・この手でつかんだ喜びとはそのようなものなのではないだろうか。師の言葉に素直に、すばやく反応する。その最初の直接的な働きかけは「ハイ」という言葉だと思います。まづ、言葉で反応すること。「ハイ」という言葉は、わかりました、そのようにします、そうさせていただきます、という肯定の意志の伝達です。その意志は力です。「ハイ」という言葉には否定がありません。条件つきということでもありません。無条件に受け入れる、ということです。相対的でもなく、絶対的な意志の働きかけです。ですから「ハイ」という言葉には力があるのです。

「そうさせていたヾきます。そうします」という肯定の言葉だけでは不十分なんです。そのコトバの前にまづ「ハイ」という二語が必要なんです。その言葉をより強力に決定づけるものが、「ハイ」の言葉にひめられた絶大なる力、貫ける意志(思)の力なんです。

この命と共にある自分に目的を与え、それを成せる言葉が「ハイ」なのです。「ハイ」という言葉には生命力があります。言葉は言霊(コトダマ)ともいいますネ。言葉は力です。コトバにはイノチがあります。イノチがあるから力なんです。その言葉にどれほどの力があるかというと、人生をかえる、運命を変えるほどの力があるのです。

言葉どおりにその人の人生が展開する。自分の言葉によって自分の人生、運命を決めているのは事実なのです。自分の人生をなげき、その責任を他になすりつける、親のせいだとか人のせいだとか社会のせいだとか、責任逃避してもだめ!

自分のことばで自分の人生を決めているのだ。それだけ、言葉には力がある。力があるってことは、生き方に責任がある。

言葉を統制する必要がある。言葉は人生そのもの、その人の生き方を明確に示すものである「人が正しい」とは「言葉が正しい」ということである。統制できるかできないか、人が正しく賢いとは言葉の方向性である。「そうなればいいですね」「そうあってほしいですね」という希望的楽観的言葉を口にする人がいるが、本当にそうなりたい、そうありたいのであれば「そう成る」「そうある」とコトバにすることなのだ。

100%、そう言葉に言い切ること、言い切ってしまうことがとても大切なんです。このことは忘れてはならない。「ハイ」という言葉は無条件に受け入れます。そうします、そうさせていただきますという意志同意語なのです。

「ハイ」という言葉が出ず、「でも」「でも」と必ず口にする人がいます。「デモ」は言い訳の言葉であり、そこになにがしかの見返りや条件がつくものです。

「イヤァー」「アノゥー」「しかし」「ちょっと」そしてそれにつづく否定的な言葉が「でも」です。

「でも」という言葉は否定の言葉です。100%拒むか、50%肯定するか、いづれにしても反、否定です。

「でも」と言葉にした途端、力は働きません。力が働きませんから、やっていることも途中半端で思うようにことが進みません。得たいものが入らず、手にとどかないのです。カスばかり入ってきます。

「でも」は又自己否定です。自己否定しながら何かを求め何かを得ようとしても、入ってくるもの得たいものはたかが知れています。それは人生への不平不満へとつながり、焼いても煮ても食えない、グチ、ヤキモチ、嫉妬やねたみ、そしてコンプレックスにつながってくるのです。

「でも」と言いわけする生き方をする人は、自分に言い訳しつづけていることに気づきません。指摘されても、イヤ、あの人にこの社会にむけているんだと、それを認めません。しかし「でも」は自分の言葉なのです。そして自分の人生や生き方の言い訳なのです。自分に言い訳しながら生きているのです。生涯言い訳しつづけます。そんな人生は、本当にしんどいのです。

自分に言い訳ばかりしているのですから、きもちよくない、楽しくないんです。いくら満たされていても満たされない、有難く生かされていることに感謝できないから、ああなんてすばらしいんでしょといいながら「でも・・」ここがどうのこうの、あそこが気にいらない、とグチを言います。

ああなんておいしいんでしょうと言いながら「でも」。味つけが云々、肉のやわらかさが云々、野菜の盛りつけがウンヌン。スープの味がウンヌン。熱さ加減、塩加減がウンヌン、とにかく「でも」が口癖のように連発されるのです。ですから必ず「でも、幸せじゃない」「でも、たのしくない」「でも、納得できない」「でも、退屈で仕方がない」と・・・・。ああおいしい、すばらしい、なんて有難い、で言葉を納めてしまうことができないのです。それは満たされることのない不幸な人生です。「ハイ」とすばやく言葉に反応できる生き方って迷いがなくなってくるんですね。それに生き方がとってもらくになってくるのです。らくを感じる前にきもちがいいんです。それが「ハイ」の二文字なのです。

そして「ハイ」は魂にヒビキを与え、相手の心を動かします。「ハイ」という言葉の力は素直に生きる、生かされる、つまり生き方に迷いがなく、たくらみのない生き方ができる、ということです。

こちらが「でも」で答える限り、それは条件つきであり、その心には何か見返りを求める欲が働いていますから、相手も条件つきでそれに答えようとしてくるからです。ですから無条件で、できる限りの強力と理解をおしまないような心の働きができないのです。「ハイ」と無条件にうけ入れれヽば相手は心を開き無条件で受け入れあなたに答えようとして働きかけて下さるのです。

三浦寛

Dr. Keizo Hashimoto

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