私語録(後編)

   患者が、思うように動いてくれないとか、感覚がわからないから大変だってこぼす方もいるけども、相手を責めても、なんの解決にもならないよ。ただネ、僕は言うんだけど、その責任の80%は指導者側にあると思っているネ。どうしたら、からだ丸ごとで表現できるのか、どのような問いかけを与えてやったら感覚がつかめるのか、工夫してみたらいいんだ。「動かねば、動かしてみせる」、感覚がわからねば「わかるようにしてみせる」それ位の気迫が欲しいネ。患者は歩いて来てんだから、動けないことはないしネ。その感覚だって、もともとそなわってある感覚なんだもの工夫しろってんの。  

ところがネ、実際の現場にいると、本当に動かしようのない患者がくるし、感覚がわからない患者がいるんだネ。本当にこれじゃ(きもちのよさがわからない人って、自分がわからない、自分らしく生きていない)手も足もでなくって、マイッタ!ギブアップする以外ない。不思議なもので、そんな患者が一人つくと、連鎖するのか、立て続けに同じような患者が通院するんだネ。悪戦苦闘するんだけど、マァこれも、ためされているんだネ。こちらも、毎回ギブアップばかりしておれないから、患者のからだと真剣に対話するんですよ。どうしたら閉ざされたこころとからだがひらくのかってネ。そうした対話のなかで一つひとつ理解できたことがあるんだネ。  たとえば、急性腰痛症、別名、魔女の一つき、とかムチ打ち症とかネ、身動きとれない状態で、家族に支えられて通院してくるけど、アレは炎症性だから、特に腰とか首をやられると、まづ、からだの自由な動きは、極端に制限されてしまう。ポジションは身のおきどころがないし、動診分析しても、どう動かしても脳天に走るような激痛、まさしく八方塞がり、そんな患者を動かして診断するっていったってネ、一番安楽な状態で安静にさせておくのが一番だと思う。こんなからだの状況を診ててネ、ハット気づかされることがあるんだネ。からだは、動きを四方八方に塞いで安静を要求しているんだってネ。

こんな状況にあっては、動診分析しても、つらい、苦痛な動きばっかりで、楽な動きも、快適感覚すら、つけていないんでネ。つまり、からだの方で、きもちのよさをつけてこないんだネ。先も話したように、からだは動きを八方に塞いで安静を要求してんだから・・・・。 こんなからだの状態でも、不思議と云えば不思議な現象なんだけど、痛覚に対する逃避反応はおこるんだね。無意識には、からだは動く、こんな場合は特に痛覚に対して、過敏に反応する。からだのある部位の硬結、緊張しているところの核(中心)をさだめて、圧診してみると、患者はイデッデデーと悲鳴を発しながらも、ころげまわるんだネ。

動けなかった患者がだよ。この、ころげまわっている無意識の動きというのは、痛みから逃避する動きなんだネ。うまく、からだはできているネ。逃避反応は、からだが少しでも、より多くのがれるためのヒミツの動きなんだ。だからネ、この逃避反応のベクトルが高ければ高いほど、からだは解放されてくるんだネ。呼吸も、深呼吸ができるほどらくになってくる。塞がれた動きも一つひとつ解放されてくる。  圧診して逃避反応をみる場合、硬結部の中心に指を触れ、瞬時にピタッとその部位を圧診することだ。こわごわ遠慮しながら触れても意味がないんだ。正確に逃避反応のベクトルを見定めるためにネ。この逃避反応のベクトルが歪み整復の復元運動コースにつながっているんだから。  

マァ、このような患者さんと、ご縁があったら、一度こうした方法もやってみたらいいネ。  こんな話しをするとネ、操体の臨床にも不向きがあるんだなどと、弱点をついてくる者がいる、けどネ、しかし、こんな疾患をかヽえている患者に対してネ、著しい臨床効果をあげられるような治療方法はないんだネ。あるとすれば、モルヒネでも打つしかない。動きを八方に塞ぎ、快適感覚をからだがつけていない状況とは、一時的な現象にしろ、よほどのダメージなんだネ。だから、何をやっても、急には治りづらいと思っていい。  しかし、患者には自分自身の都合があって、三日後に海外出張があるとか、今度の土日はゴルフコンペがあるから、なんとかしろってネ。自分の、病んでいるからだを、脅迫する患者がいるんだよ。ホントはネ、私を脅迫してんだけども、私は、そんな時はネ、いつも、この患者は自分のからだをきょうはくしてんだな、と、逆に思っているから、その手にのらないんだ。  こんな患者のからだを思いやれば、診ないほうが患者のためにいいのかな、と思ってしまうのだがネ・・・・・。  

たヾ、私も、なんとか答えてあげたいと思うから、からだと対話するんだネ。なにかからだから糸口をききだせないかのかって、ネ。その時に、からだが教えてくれたのが、皮膚にききわけてみみろって教えてくれたんだネ。橋本先生が、運動系の定義について書かれている中で、「骨、筋とともに動く、皮膚を含む」、と述べているんだネ。これは何か、大きな解決の糸口になると思って、皮膚と遊んでみた訳なんだ。皮膚と遊ぶと言ったって、皮膚にラクガキしたわけじゃなくてネ、どうしたかというと、関節の動きを分析するように、皮膚を軽く動かしてみて、その感覚を患者にききわけさせてみたんだ。するとネ、動きにききわけた快適感覚とは、まるで異なるきもちのよさがついていることがわかったの。ついているという表現よりも、からだがつけていた。つけてくる、と言う方が適切かもしれない。からだはネ、八塞に動きをふさいでいる時には、どんな動きにも快適感覚はつけてこないんだけど、このボディーの壁をなす皮膚には、ちゃんときもちのよさをつけていたんだネ。僕はてっきりネ、動きばかりに集中して、快適感覚のききわけを探りだそうとしていたからネ、まさか、皮膚につけていて下さったとは、この神秘なるイノチのしくみに感無量の思いがするネ。

皮膚まで到達すると、今までの操体の常識を越えてしまっている。操体という名称なんて、どうでもいいという気持ちだネ。橋本先生の内弟子に入った当時はネ、今のように操体という名称すらなかったんだよ。僕は先生に名称はないのかって一度聞いたことがあってネ、その時先生は、「名称なんて、どうでもイイんだよ、大切なのは真理だ」ってネ、話されていたよ。その意味が僕にはよーくわかったネ。

先生が操体という名称をつけたのも七十九才になってからのことでネ、それまでは何吹く風で、いっこうに名称など気にされていない風だったネ。無頓着というのか、無欲ですがすがしすぎるんだネ。先生は神、仏じゃないけど生き方にストレスがなく迷いがない先生だからネ、側にいさせてもらえる我々にとって、そりゃきもちがいい存在だったネ。それに、高齢とともに見事な枯れ方をなさる。自分もその時は、先生のように枯れて生きたいと思ったもの・・・・。

そんな先生が、操体という名前をおつけになった。内心はいやだったろうネ。そのきっかけとなったのが、NHKのドキュメンタリー出演が決まった時なんだネ。  名称がなくては、紹介しようも無い。からだをきもちよく操るんだから、操体とでもしとこうと、そんな気持ちじゃなかったのかな。名称そのものにそんな深い意味があるとは思っていないけど。  

ところで、皮膚に快適感覚をききわけていくと、今までとは違った、異なる快の感覚がつく、と先程話したよネ。僕は、患者一人ひとりに、どんな感覚がついてきもちがいいのかとチェックして記録にとってあるんだけれど、動きの分析からでは全く想像できない感覚を、からだはつけてくるんだなァーと思うほど、異質な快適感覚なのである。どうしてこんなに違うのかって、なにか、その伝達回路にでも違いがあるのだろうかと。  

それが、調べてみると、神経伝達回路のなかに、錐体路系と錐体外路系が存在していることがわかってネ、ここで詳しく説明できないけれど、何か、ここにヒントがかくされていると思ったんだ。錐体路系-骨格関節を包囲する横紋筋系、随意筋、随意運動関与。錐体外路系-内臓筋、不随意運動関与との説明がなされている。ハハン。なるほどと思った。こうした観点から操体を客観すると、操体はこの錐体路系なのか、ただしネ、快適感覚をききわけづに、楽な動きを操法に選択している場合は、錐体路系なのだ。しかし、快適感覚を操法に選択した場合は、このきもちのよさとは、錐体路系にも錐体外路系にも作用する働きをもっているんだ。楽な動きでは、骨格、関節を内包する横紋筋系、随意筋、随意運動関与にしか働きかけられないと言うことなんだネ。そう云った観点で骨格関節、横紋筋を動かしてみてのきもちのよさって言うのは、どちらかと云うとネ、のびてきもちがいい、ちぢんできもちがいい、ネジれが入ってきもちがいいという快適感覚が多いものネ。

もちろんネ、それには神経系の関与も当然あるんだけど、皮膚に問いかけていくと、まるで違う快の感覚なんだネ。それにあてはまるような用語がないんで、私なりに付けているんだけど。たとえば、意識飛びの現象とか、きもちのよさの飛び火現象とか、S字現象とか、光体、色彩、色まで、からだはみせてくれるんだネ。それに温感、冷感、浮く沈むという現象もネ。それが、患者にききわけさせてみると、快適感、きもちのよさにつながってくるんだネ。  その上にネ、きもちいい快適な感覚に動きをつけてくるんだネ。もちろん、無意識にからだが動いてくる。その動きっていうのが、動診分析中のあんな動きじゃないんだネ。つまり、もう一度再現して動けと言っても、再現できない体中の動き、内動してくる動きなんだネ。自分が意識して動く動きじゃなくって、もちろん、きもちのよさについてくる動きだから、とても、きもちがいいんだ、ってこともわかったんだ。  

 自分の意識関与とは全く別のからだの動きなんだ。うねりが入ってみたり、上下に動きが入ってみたりネ。それがネ、動きと言ってもいいのか、ゆるやかな、流れとも、波動とも、からだのなかも外も、まるごと、からだの中から外に流れ、その波動が外から内に流れるような印象なんだネ。それが、きもちのよさがつけてくる動きなんだネ。からだがつけてくるきもちのよさの動きなんだよ。だからネ、からだが表現する快の動きをみていたらネ、動、動く、動いてみて、動かしてみて、とか、ネ、うごきという言葉そのものが不都合で使えなくなってしまったんだ。不思議だよ。言葉の持つイノチに触れたという感じがする。  それで僕は、誘導する時はネ、動という言葉は使わない。できるだけその言葉にかわる言葉で表現で相手に伝え、伝わるようにしているんだネ。

なぜ、そこまで配慮するのかと言うとネ、からだにヒビク、とおる言葉があって、私はそれを体感語といってんだけど、僕が誘導する言葉は、からだとの対話であって、その対話のための、言葉かけになっているんだ。言葉というのは、確かに何かを具現化させるための強力なエネルギー、波動をもっているネ。それは昔から言われているように、コトハ、言霊(コトダマ)とと言われていた。言葉にも命がある。言葉には、すごい生命力があるって言うことだネ。橋本先生も、心の調和のなかで、運命のハンドルは言葉だ、言葉の方向に運命が向くんだゾ、言葉を統制しろ!って諭されているんだネ。そう諭す先生こそ、先生の口から、グチや人の批判は聞かれない。有難く生かされてんだ、感謝、感謝の言葉がでてくるだけだ。  

先生の言葉には、命があるネ。その言葉は本当に生きものだ。生命力があるんだ。力がある。そんな先生の言葉を目にし心にすると、生きる意欲、創造力、自分は自分であるが、自分を越えた大いなる力によって生かされている、そんな自分を感じるネ。自分らしさのなかで、自分を表現する、自分らしくこのイノチを使わせていたヾいて生きていく。自分とはなんじゃ、何者かということがわかり出してきそうだよ。  この言葉で思い出したんだけど、僕はからだにも、意志があるって話すんだ。からだは、言葉のヒビキを波動としてとらえ、それが生命の意志感覚として、快、不快としてキャッチするんだネ。その言葉の波動が快なのか不快なのか、ききわける機能がある。その1つの生体情報が、体中の水分、つまり水なんだネ。からだの70%~75%は水分だって、中学か小学校の授業で習っているよ、この水そのものがネ、人間の発する言葉の波動によって、快、不快を認識することがわかってきたんだネ。我々の命にとって水は不可欠なイノチの本質、このイノチを生かしてくれている源泉だよネ、その水が、人間の発する言葉の波動によって、水そのものがきれいに浄化したりネ、逆にきたなくにごってしまうというのだ。これはネ、重大な問題なんだ。自分が発する言葉によって、体中の水分がにごったり、汚水化されるってことは、自分の命を自から傷つけているってことだろう。今の若い人達もそうだけど、言葉が汚いし、みだれているよネ。あれはネ、生命力そのものが低下している証拠なんだネ。すべてが低下しているってこと。

言葉のもつ荒い波動で、からだ中の水分、もちろん、血液、体液も、にごってしまっているってことなんだネ。悲しいことだけど、生命力そのものが、ダメになっちゃうから、一番ダメージをうけるのが、心なんだ。心に傷がついてしまうこと。心が病むことが一番恐ろしいんだ。心が悲鳴を上げて呼吸できない状況においこまれているんだよ。本当に深刻な問題なんだネ。  我々の命の本質、このイノチを生かしつづけている水や空気を汚染し、チッそくさせてしまったら、ますます、心の傷は蔓延してしまう。世界中に蔓延してしまったら、それは生き地獄の姿であろう。目をあけて凝視しておれるようなことでは無いんですネ。生物化学兵器どころの問題じゃなくなってきているんだネ。一人ひとりの、その言葉が生き地獄を作り出していくことこそ、恐ろしいものはないのだから・・・・。

  患者が、思うように動いてくれないとか、感覚がわからないから大変だってこぼす方もいるけども、相手を責めても、なんの解決にもならないよ。ただネ、僕は言うんだけど、その責任の80%は指導者側にあると思っているネ。どうしたら、からだ丸ごとで表現できるのか、どのような問いかけを与えてやったら感覚がつかめるのか、工夫してみたらいいんだ。

 

(2003年11月)

2010年8月28日 東京操体フォーラム in 京都
(大徳寺塔頭玉林院)

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