快からのメッセージ「あとがき」より

 

哲学する操体 快からのメッセージ 三浦寛著 (たにぐち書店)

「あとがき」より

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 「操体はおもしろいぞ、一生たのしめるからな」と、白い口ヒゲの下にタバコをくわえて満足げに話しておられたかくしゃくとした師の笑顔がまざまざと浮かんできます。

 私は操体とのかかわりの中で、「快適感覚」をテーマに学んできました。その快適感覚を探究し続けていくと、快適感覚そのものが生き物のように生成発展していくプロセスが浮かび上がってきました。人と人とのかかわりには、言葉のコミュニケーションが必要不可欠ですが、心とからだは言葉のかわりに感覚をとおして私に語りかけてきます。また、私はそうして心とからだと対話する中で、心とからだがききわけもつ言葉、心とからだには通じる言葉があることを学びました。

 私は、この心とからだにとおる言葉を「体感語」と表現しています。

 本来、心とからだは人間の欲望やエゴを満たすために調和されるべき存在ではないようです。このイノチを生かしつづけてくれている大生命の理、そのイノチの本質に向いているのです。つまり、人間の欲望やエゴに自然の摂理を都合よくあわせていくような合理性に向いているのではなく、心とからだは人間がこの自然の摂理に自分の考えや生き方を合わせていく生き方にこそ大調和されてくるもので、この非合理性にこそイノチの本質があるのではないかと思います。

 また、人の生き方にいうて、「自分が自分らしい」「自分が自分らしく生きる」ということは「心とからだが歓喜する、している」ことの裏返しでもあります。私自身に私としての人格、パーソナリティーがあるように、心とからだにも人を人としてならしめる内なる人格があると考えます。

 つまり、心とからだの働きは非合理性(自然の摂理)の理にかなったものなのです。そして、「イノチあるものの存在は快の方向性に向く」という大原則(大生命の英知)に従っているのです。心とからだも、その原則に従って調和されているようです。

 そう考えると、自分の意に反するような心とからだの働き(心の病、からだの病、物事が思うようにいかない、調和できない、バランスを崩す)は、この非合理性の理にかなった心とからだの働きかけに相い反するような生き方、考え方の結果として受け止められるのです。「人が正しい」とは、

「よりよく十分に生きる」とは、その意味を理解する上で、心とからだの内なる生命感覚をききわけること。心とからだが何を必要として要求し、選択してくるのかということを感覚をとおして理解することが切望されてくるのです。

 その中で、気づきをもって意識の変革をなしていくこと。意識が変わらなければ、現実は何も変わらないのです。私たちは、「どう生きるか」を考える前に、「どう生かされている私のイノチの存在なのか」を考えてみる必要があります。

 私は数十年前に「魚の命は魚にあらず水にある」という名訓を知りました。自分のイノチというものは、このイノチを生かしてくれている大存在とは、この宇宙という大生命であり、イノチそのものが私のイノチを生かしてくれているそのものの存在であるという認識に立つこと、そして「報いの生命観」から「救いの生命観」に目覚めることが必要になってくるのです。

 最後に、操体のいきつくところは、心の調和、心の制御のあり方だと思います。

 それは医学の進むべき道ともいえるでしょうが、今の治療医学では現実の問題として対処しきれない数々の問題をかかえこんでいます。たとえば延命治療としての医学は限界があります。死にゆく人に対しての心の医学、甘く眠る、ねむるがごとき死を迎えられるような甘瞑の医学、人の生死観をとおした人間学が問われる時代に入っているのです。

 ヒトは死のキャリアをもって生まれてきます。医学も、医者も、この死という発症(キャリア)をとめることはできないのですから。

 しかし、操体では肉体の死を死としてとらえていないのです。帰一の法則としてとらえているのです。

 帰一とは、命あるものは無条件の愛から生まれ、そしてその神性に帰っていくことなのです。

 ヒトは一番きもちがいいところから生まれ、そして、一番きもちがいいところに帰っていくのです。

 これが帰一の法則です。

 平成十一年九月

2009年12月、伊勢神宮にて